有楽町の歴史

有楽町ブランドムービー
新しい有楽町で逢いましょう

会遇する

さまざまな人びとの人生が交錯し、
出会いの場となってきた有楽町の歴史

出逢う、越境、ドラマ、運命

会遇する

さまざまな人びとの
人生が交錯し、出会いの場と
なってきた有楽町の歴史

出逢う、越境、ドラマ、運命

有楽町から生まれたという『丸の内音頭』では、江戸城/皇居のお膝元という土地柄から「大君と民との一世の契り」「むすぶ都の二重橋」と唄われ、この街の結節点としての性格が読み取れます。旧警視庁や旧都庁舎といった公の施設とともに、様々な文化施設、商業施設が混然一体となり、また戦後にはGHQが本部を構えアメリカ文化が一気に流入するなど、有楽町にはかたちを変えながらも常に多様な文化を受け止めてきた歴史があります。そのことはこの街が「出逢い」の舞台として繰り返し描かれてきたこととも無縁ではないでしょう。1952~54年にNHKラジオで放送されたメロドラマ『君の名は』では、数寄屋橋で出逢いこの場所での再会を誓いながらも運命に翻弄される男女の物語が描かれ、映画化された際にはヒロインのストールの身に着け方が「真知子巻き」と呼ばれ流行するなど、一世を風靡しました。また1957年の有楽町そごう開店時には、メディアミックスプロジェクトとして『有楽町で逢いましょう』が展開されます。雑誌『平凡』での連載小説が先行し、これを脚本にラブロマンス映画を大映が制作、フランク永井の歌う主題歌が大ヒット。作中で待ち合わせの目印として描かれた同店シンボルの愛の女神像前は連日多くのカップルの姿で溢れました。こうして、有楽町には数多くの出逢いのドラマが生み出されていったのです。
1932[昭和7年]
丸の内音頭
(後の東京音頭)
>いまでは東京中の盆踊りで定番となっている『東京音頭』は、1932(昭7)年、昭和恐慌で落ち込む景気を活気づけようと、『丸の内音頭』として有楽町の商店会の働きかけによってつくられた。原曲の歌詞には有楽町周辺の丸の内、二重橋、数寄屋橋などが登場し、丸の内や有楽町のビル群の景色とともに、皇居のお膝元で民衆が活気に溢れている様が唄われている。古くは江戸城と周辺の大名屋敷とを町人街とを結び、時代が変わっても、皇居と銀座や日比谷を結ぶ要所であるこの街の結節点としての顔が見て取れる。
1952[昭和27年]
君の名は
1952~54年にNHKラジオにて放映されたメロドラマ『君の名は』は、戦時・戦後、数寄屋橋での再会を誓うも、運命に翻弄されてなかなか出会えず結ばれない男女を描き、当時絶大な人気を誇った。1953年に映画化がされると人気に拍車がかかり、ヒロイン役・岸恵子のストールの巻き方は「真知子巻き」として女性の間で流行のファッションに。数寄屋橋は外濠川埋め立てとともに姿を消したが、数寄屋橋公園には今も、菊田一夫の筆で「数寄屋橋 此処にありき」と石碑が残る。
1957[昭和32年]
有楽町で
逢いましょう
1957年、有楽町駅前に読売会館が建つと、そごうが東京に初進出する。そごうは宣伝戦略として自社提供の音楽バラエティー番組『有楽町で逢いましょう』を放送開始、続いて雑誌『平凡』での同名連載小説や、京マチ子をヒロインにしたラブロマンス映画も制作され、フランク永井が歌う主題歌は大ヒット。メディアミックスのプロジェクトとして大成功を収める。映画中で恋人たちの待ち合わせの目印となった有楽町そごうのシンボル、愛の女神像は、当時のカップルたちの定番の待ち合わせスポットとなった。
1868 - 2021