古くから有楽町は文化を育み、人を育てる街でした。2019年に惜しまれつつ閉館した日本初のロードショー劇場・スバル座を中心とした一角は「スバル街」などと呼ばれ、近隣の数館とともに文化圏を築いていたほど。場所や名前を変えながら長い歴史を持つ丸の内ピカデリーや日比谷寄りの東京宝塚劇場など、一帯には今も数多くの映画館が集まる街ですが、その劇場文化の歴史ははるか1908年にまで遡れます。この年、日本初の欧風劇場・有楽座が設立されると、新劇運動の拠点として新進の劇作家や劇団が新しい芸術表現に挑戦する場となり、文化を愛する人々が集うようになります。1911年には帝国劇場が現在の場所に開館し、歌舞伎やオペラ、バレエなども上演されるようなりました。1933年、アジア最大にして「陸の竜宮」とも称された豪奢な内装を誇る劇場・日本劇場が朝日新聞社の隣に開館すると、以降、約50年にわたって日本随一の芸能の拠点として、映画、ショー、舞台、ジャズやロカビリーなどの音楽ライブ、レヴューまで、多様な芸術を発信しました。同じ頃、実業家・小林一三氏は「日比谷有楽街アミューズメントセンター」構想を描き、東京宝塚劇場や日比谷映画劇場を設立しました。こうした劇場群から、何百、何千というスターが生まれ、育っていったのです。
1908[明治41年]
新劇の拠点、
有楽座が誕生。
有楽街の夜明け
>日本初の欧風劇場として、1908(明41)年、当時建設中の有楽町駅の東側、外濠川沿いに有楽座が建った。設計は横河民輔。旧劇や新派の商業主義批判から起こった新劇運動初期の拠点の一つとして、坪内逍遥の芸術座、小山内薫と二代目市川左團次の自由劇場、井上正夫の新時代劇協会、島村抱月と松井須磨子の芸術座等の旗揚げ公演が行われた。森鴎外や島崎藤村など芸術家や芸術愛好家に支持され、新しい芸術の発信拠点、また人々の交流の場となった。
1911[明治44年]
演劇の殿堂
帝国劇場設立
渋沢栄一ら経済界が出資し、1911年(明44)年に帝国劇場が設立。白レンガの外装に、大理石や壁画があしらわれた豪奢な内装、専属の歌舞伎役者に外国のオペラ・バレエの上演など、上流好みの人々に人気を博し社交界の舞台となる。帝劇パンフレット掲載の三越の広告「今日は帝劇、明日は三越」が流行した。1966年に谷口吉郎の設計で複合ビルに建て替わり、いまの姿となる。時代の変遷のなかで映画、演劇、ミュージカルと様々な演目を上演・上映し、常に芸術の一大発信拠点であり続ける。
1923[大正12年]
有楽座の跡地に
邦楽座が開業
1924(大13)年、有楽座の跡地に、当初は歌舞伎や宝塚歌劇を見せる芝居小屋として開業。1927年にパラマウント映画の直営館となり、30年に松竹傘下となった帝劇と共に映画を上映。33年に設立された日劇に隣接。その後、丸の内松竹、GHQ接収でピカデリー劇場など改称しながら、演劇『ハムレット』の公演や映画『エクソシスト』の上映など文化の発信地であり続け、今もマリオンに丸の内ピカデリーとして残る。
1933[昭和8年]
小林一三と
アミューズメント
センター(有楽街)構想
有楽町の歴史の影には、宝塚歌劇団の創始者として知られる実業家・小林一三の存在があった。1932年に日比谷の東京電燈株式会社の社長に就任した小林は、日比谷の土地を個人で買い上げ、この地を軸に 「浅草よりは、より高級に、上品に、そして家庭本位に、清遊の出来る帝都の新名所」を創出しようと「日比谷有楽街(アミューズメントセンター)」構想を描く。1934年に東京宝塚劇場を同地に設立すると同時に隣地には日比谷映画劇場を設立。35年に日劇、37年に帝劇を東宝に吸収し、小林は構想を実現に向けていった。
1933[昭和21年]
スバル座の
幕開けと
スバル街
戦後の文化復興の旗印ともいえるのが、1946(昭21)年に、日本初のロードショー劇場として開館した映画館スバル座だった。当時、GHQは進駐軍の娯楽と、アメリカ文化への親しみのため洋画の配給先を探していた。東宝系列のスバル興業がこれに真っ先に手を挙げ、当初は丸の内スバル座として開館(53年に焼失、66年に有楽町スバル座として再開)。戦後の混乱期にあって文化を発信し続けた。スバル座の並びにはやがて、オリオン座や日活の基幹劇場である丸の内日活劇場もでき、一帯には飲食店街「スバル街」が築かれていった。