有楽町の歴史

有楽町ブランドムービー
新しい有楽町で逢いましょう

発する

新聞社やラジオ局が拠点を構え、ニュースと
カルチャーの発信地だった有楽町の歴史

発信する、思想、流行り、オールナイト

発する

新聞社やラジオ局が
拠点を構え、ニュースと
カルチャーの発信地だった
有楽町の歴史

発信する、思想、流行り、オールナイト

かつて「新聞街」とも呼ばれた有楽町。社会主義新聞『平民新聞』を刊行した平民社(1903年)に始まり、報知新聞社(1905年)、東京日日新聞社(現・毎日新聞社、1922年)、朝日新聞社(1927年)などと、戦前この地には多くの新聞社が進出しました。日夜奔走する新聞記者の姿とともに、1980年の移転まで50年近く、数寄屋橋のたもとで有楽町のランドマークであり続けた軍艦様の朝日新聞社屋、JR有楽町駅の完成より前に駅前に居を構えていた報知新聞社屋を引き継いだ読売会館など、新聞社の存在は有楽町の景色を彩ってきました。1951年には東日本初の民間放送ラジオ局としてラジオ東京(現・TBS)が爆撃を受けた東日天文館内に開局。キャッチコピーは、有料放送のNHK(当時)を意識した「聴取料はいただきません」。民間メディアが共同で開設した電波放送の走りとして、戦後メディア史でも重要な瞬間は、有楽町で生まれたのです。これにニッポン放送(1954年)が続き、1967年には長寿番組『オールナイトニッポン』が放送開始。有楽町の本社から実に50年以上、深夜帯の文化を牽引してきました。その後も、ラジオに続いてテレビの時代が訪れると、東京ヴィデオ・ホール(1953年)をはじめ収録のための貸しスタジオが設立されるなど、形を変えて需要に応えてきた有楽町は、100年以上にわたってメディアの発展を支え続けてきた、発信拠点だったのです。
1903[明治36年]
平民新聞が
有楽町から刊行。
社会主義運動の発祥
>幸徳秋水と堺利彦が新聞社を退社し、日露戦争に向けた非戦論の主張を中核とした社会主義結社・平民社を有楽町3丁目に設立。『平民新聞』の刊行を開始した。日本の社会主義運動の発祥。政府からの弾圧に対抗するも、同紙はわずか2年で廃刊してしまうこととなるが、1904年には創刊1周年記念としてマルクス『共産党宣言』を初邦訳し掲載、翌年にはエスペラント語を紹介するなど歴史的意義も大きく、日本各地の社会主義運動の起こりに影響を及ぼした。
1903[明治36年]
報知新聞社が
有楽町に進出。
新聞街の萌芽
犬養毅や原敬らも在籍した報知新聞社(当時『郵便報知新聞』)が京橋から、まだ駅舎建設中だった有楽町駅前に、1905(明38)年に進出。同紙は明治・大正期に東京五大新聞の一角を成し、後に新聞社が続々と進出し「新聞街」と呼ばれる先駆けだった。1922年に近代的な新社屋設立も関東大震災以後振るわず、1930年に講談社に買収も撤退、戦時下の新聞統合で讀賣新聞社に合併された。社屋は読売別館となり、後の建て替えでよみうり会館に引き継がれ、いまに至る。
1927[昭和2年]
数寄屋橋に
朝日新聞社が
新築移転
大阪に創業した朝日新聞社は、1887年に『めさまし新聞』を買収して東京進出。東京の京橋で『東京朝日新聞』として新創刊するが、関東大震災で社屋が焼失したため、1927(昭2)年に数寄屋橋に新築移転した。3300平米の敷地に、地下1階・地上7階建て。塔屋には伝書バトを200羽収容できた。設計は分離派建築の石本喜久治で、「軍艦」とも評された威風堂々とした姿は、1980年の同社築地移転まで、新聞街・有楽町の象徴であり続けた。
1938[昭和13年]
東京初の
プラネタリウム、
東日天文館が開館
東京日日新聞社の側に建つ東京日日新聞会館内に、1938(昭13)年、東京初のプラネタリウムとして東日天文館が開館。1943年の社名変更で毎日天文館に改称。出資には東宝の小林一三らも参加した。戦争へと突入する陰鬱な時代にあって人気を博し、入場者は年間100万人を数えるまでになったが、1945年の戦火でドームが破壊され、8年で幕を下ろした。
1951[昭和26年]
ラジオ東京と
ニッポン放送の開局
NHKラジオしかない時代、東日本初の民間放送ラジオ局として、個別に準備を進めていた朝日、毎日、読売、電通(当時は日本電報通信社)の合同で、1951(昭26)年にラジオ東京が開局(後のTBS)。キャッチコピーは、有料放送のNHKを意識した「聴取料はいただきません」だった。民間メディアが共同で開設した電波放送の走りとして、戦後メディア史でも重要な瞬間だった。ほどなくして、1954年にはいまも有楽町に本拠地を構えるニッポン放送が開局。日本のラジオ放送をリードする存在となっていった。
1951[昭和26年]
スタジオ需要と
東京ヴィデオホール
ラジオ局開局に続き、1953(昭28)年には有楽町・蚕糸会館に東京ヴィデオ・ホールが開館。東京中で相次ぐラジオ局の開設と、間もなく開始という状態に迫っていたテレビ放映に対応し、キャパシティ不足に備えて設立された貸しスタジオだった。開館当初の朝日新聞にも「ヴィデオ・ホール完成 スタジオ不足に一役」の見出しと共に紹介されており、ラジオやテレビ収録の需要が急速に高まっていた様子がわかる。400名を収容可能な公開収録スタジオを持っており、開館当初から活況を呈した。またテレビ/ラジオの収録以外にも、コンサートや映画の上映会にも利用された。戦後すぐに設立されたスバル座の周辺には「スバル街」と呼ばれた飲食店街が形成されていくが、すぐ側のラジオ局やスタジオに訪れる業界人や芸能人たちの憩いの場ともなっていった。
1868 - 2021