有楽町の歴史

有楽町ブランドムービー
新しい有楽町で逢いましょう

変態する

江戸時代から戦後、そして現在まで、
さまざまな変化を経てきた有楽町の歴史

メタモルフォーゼ、未分化、流転、時代の鏡

変態する

江戸時代から戦後、
そして現在まで、さまざまな
変化を経てきた有楽町の歴史

メタモルフォーゼ、未分化、流転、時代の鏡

有楽町はめまぐるしくかたちを変えてきた街です。かつては有楽町の名の由来とされる、織田有楽斎の屋敷があったとされ、江戸中期には南町奉行所が置かれ大岡忠相を含む大名屋敷が並んでいました。明治期には警視庁や東京市役所ができ、一方では有楽座や帝国劇場などの欧風劇場の建設が相次ぎます。銀座の三越と並んで、「今日は帝劇、明日は三越」のキャッチコピーが流行するなど、この時代の有楽町は最先端のスポットでした。 変わって昭和初期には各新聞社の進出で「新聞街」を形成し、日劇や丸の内ピカデリーの誕生で「日本のブロードウェイ」などとも呼ばれていきます。しかし第二次大戦で空襲を受けて街は一変。第一生命ビルはGHQに接収されて周辺にはアメリカ文化が流れ込み、有楽町駅東側にはヤミ市が生まれます。昭和中期からは雑然としながらも活気を取り戻し、東京都旧庁舎が完成、ラジオ東京とニッポン放送が開局し、ハイカラな日活ホテルもオープン。駅前には有楽町そごうが開業し、仲通りにはオフィスビルが建ち「日本のウォール街」と呼ばれるまでに。日劇・朝日が解体されると、跡地に有楽町マリオンが誕生し、商業施設も充実。いっぽう、都庁が移転した跡地には、東京を代表するコンベンションセンター「東京国際フォーラム」ができました時代の変化に敏感に、寛容に、みずからも度重なる変態を遂げてきた街、それが有楽町なのです。
1945[昭和20年]
進駐軍と流入する
アメリカ文化
>終戦を迎えて、有楽町の第一生命館にはGHQ本部が置かれる。周辺に焼け残ったビルの多くはGHQに接収され、軍部司令部や宿舎として活用されるいっぽう、進駐軍のための様々な施設が用意され、欧米文化が流入していく。象徴的なのは、日比谷の東宝宝塚劇場が接収され、進駐軍のためのオフリミットの慰問施設アーニー・パイル劇場と名を変え10年にわたって営業されたこと。また邦楽座は英国軍に接収されてピカデリー劇場(現丸の内ピカデリー)と名を変えるなどし、敗戦ムードにあっても有楽町一帯は欧米文化によって華やかに彩られた。
1950年代
ヤミ市と
スシヤ横丁
戦後、兵役からの復員や引揚者により都市部の人口が増大したのに対し、政府の統制下においた食料物資では到底足りず、戦災などによる空地でヤミ市が始まった。有楽町駅東側の線路沿いの一帯は、新宿・新橋と並ぶ東京の三大ヤミ市の一つで、当時出回った粗悪な安酒にちなんで「カストリ横丁」などと呼ばれ、後に「スシヤ横丁」への引き継がれた。トガード下には靴磨きの少年に浮浪者、米兵相手のパンパン=娼婦たちがいたが、「日の基引揚者一泊寮」が数軒運営され、復員や外地からの帰国した人々が集っていたという。
1952[昭和32年]
東京都庁旧庁舎
1889年から有楽町に居を構えてきた東京都(当初東京府、次いで東京市)は、1894年建設の赤煉瓦の庁舎を引き継いできたが、第二次世界大戦時に焼失。跡地にて、1957年、丹下健三の建築による新庁舎が誕生した。鉄骨構造の地上8階・地下2階建て、ガラスを多用した近代的な建築で、丹下健三の代表作の一つといわれる。しかし東京都の職務・職員の増大や建物老朽化もあって、1991年に新宿の現庁舎に移転した。今は国際フォーラムが建つ。
1980年代
朝日新聞社移転と
日劇解体
建物の老朽化と東京都の再開発で解体。本社は築地に新築移転した。これを機にコンピューターによる新聞製作のシステムに切り替わる。跡地に建つ有楽町マリオンには朝日新聞記念会館が入る。 建物の老朽化と東京都の再開発により解体。「サヨナラ日劇フェスティバル」を最後に行った。跡地に建った有楽町マリオン内の映画館に「日劇」の名は引き継がれた。
1868 - 2021