有楽町の歴史

有楽町ブランドムービー
新しい有楽町で逢いましょう

扇情する

感性を刺激し、
人びとを引きつけてきた有楽町の歴史

感性、エロス、刺激、惹きつける

扇情する

感性を刺激し、
人びとを引きつけてきた
有楽町の歴史

感性、エロス、刺激、惹きつける

有楽町の持つ様々な顔のなかでも特に異彩を放っていたのは、この街が醸し出すエロスのイメージかもしれません。戦後には娯楽としてオフリミットのバーやキャバレーがつくられ華やかな空気がつくられていく一方、ガード下には進駐軍相手の娼婦たちが集まり、その様子は戦後初のベストセラーと言われる肉体文学の金字塔・小説『肉体の門』にも描かれ世間にも知られるところとなりました。  何より忘れてはならないのは、駅前のランドマークだった日本劇場の5階小劇場に、1952年に開場した日劇ミュージックホールです。トップレスのダンサーによるショウで大変な人気を博した劇場ですが、そこで上演されたのは、性やエロスをテーマとして徹底的に磨き上げられたレヴューショウでした。戦後の抑圧から解放され、巷では性産業が盛んになっていきますが、それらとは一線を画し、最新の音響照明設備も導入して総合的に演出されたショウは、海外雑誌にも「東京で最高のショウ」と取り上げられるほど。谷崎潤一郎をはじめ文化人にもファンは多く、また6分の1ほどは女性客で埋まっていたという話からも、いかにエロスが芸術の域にまで高められていたかがわかります。伊吹まりやメリー松原をはじめ、数々のスターも生んだ小劇場は約30年で閉場しますが、戦後文化史に大きくその名を刻むこととなりました。
1933[昭和8年]
東京随一の劇場、
日本劇場が誕生
当時アジア最大の劇場、日本劇場が1933(昭8)年に誕生。地下3階・地上7階、定員約3000人の大劇場で、豪奢な内装で「陸の竜宮」と呼ばれた。1935年から東宝が運営にあたり、開館当初からの映画上映の他、日本初のニュース上映、同館名物の日劇ダンシングチーム(NDT)のレヴュー公演、榎本健一(エノケン)劇団公演なども人気を博す。戦後はさらに幅を広げ、ジャズやロカビリー、グループサウンズ、歌謡ショー、ミュージカルや、音楽フェス「日劇ウェスタンカーニバル」などを行い、日劇は大衆芸能を煌びやかに彩った。
1947[昭和22年]
ラクチョウのお時
戦後、進駐軍を相手に有楽町に100~200人はいたという娼婦たちを取りまとめていたのは、日劇の地下を根城にする夜桜あけみとその妹分、ラクチョウのお時だった。1947年、NHKラジオの番組『街頭録音』にて隠し撮りされたお時のインタビューが流れると、戦災で身寄りも職も失い、冷たい目に晒されながら生きる娼婦たちの境遇に世間は衝撃を受けて、お時は一躍時の人となった。この時、お時は娼婦の間で流行った歌『星の流れに』を口ずさんだという。
1952[昭和27年]
エロスの表現の場
日劇ミュージックホール
「女性が見ても上品なエロチズムの探求」を命に、1952(昭27)年、日劇5階に日劇ミュージックホールが設立。性やエロスをテーマとした、芸術的に磨き上げられたレヴューショウが上演された。伊吹まり、メリー松原といったダンサーをスターに押し上げた他、ショーの合間にはトニー谷や渥美清らが登場して会場を湧かし、特別な演目では三島由紀夫、寺山修司、蜷川幸雄らが脚本や構成・演出を手掛けた。ショーとしての完成度や最新の音響や照明設備にから、海外の雑誌にも「東京で最高のショー」評され国際的な名所になった。
1868 - 2021